株式会社パーソナルクレド舎

「同情は二つの魂を殺す」という言葉をご存じですか?

こんにちは冨永のむ子。

 

前回、いい人でいようと思わず、

相手をむやみに同情したりしないでねって書きました。

 

その続きです。

 

お釈迦様の教えに、

「泥棒よりも、殺人よりも、同情は罪深い」

「同情は二つの魂を殺す」というのがあります。

 

 

泥棒や殺人は、罪に問われますよね。

 

 

そして、泥棒も殺人も、やっている時に
まともな神経ならば、

良心のどこかが痛むでしょう。

 

 

でも同情は、心のどこかに、

 

「自分はいいことしてる」っていう意識を

巣食わせながら、

 

相手を可哀そうな存在に陥れ、

そんな自分自身の至らなさに気づくこともない。

 

 

相手の魂も自分の魂も殺してしまうってそういうこと。

 

 

この同情心は、

ほんとうにやっかいですよね。

 

 

悪意がない分だけ、指摘もされにくいし、

気づきにくいものね。

 

・・・

 

だから、前回のメルマガにも書いた、

「いいことしよう」っていう自分にご用心なのです。

 

 

だってね。

天から与えられた使命を生きるなら、

 

 

そこには、

いいことも悪いこともないのです。

 

 

そもそも

宇宙そのものに善悪もへったくれもないもんね。

 

 

ただ必要だから存在し機能しているだけ。

 

「必要悪」って言葉もありますよね。

 

 

そうですね・・・、

天敵って言葉があるでしょ。

 

天敵同士は相手のことを

悪とみなすのかもしれない。

 

でも、その両方が存在しなければ、
生態系は崩壊するんだから、

どちらだけが良いなんてことはなく、

どちらも、ただ在るだけなのですよね。

 

だから、目の前の相手に対しても、

自分の小賢しい判断で、
「いいことしよう・・」なんて

思わない方がいいかもなの。

 

 

あくまで私の実感ですが、

 

使命を生きるって、

自分のしてることがいいことうんぬんとか、

そういうレベルじゃない。

 

 

なんだかわかんないけど、

これをやるんだ、っていう

 

圧倒的なゆるぎない感覚。

 

 

そう、

天に使ってもらうだけ。

 

 

いいも悪いもなく、

天に突き動かされるんですね。

 

当然ながら、

 

「これなら食べていけるかも」でもないし(笑)、

 「できそうだから、とか、やれそうだから」でもない。

 

 

目の前の世界に、

ただ自分をただ差し出すのみ、

 

立派な良い人じゃなきゃ務まらないんじゃないの。

(だったら私なんて死んでも無理ざんすよ)

 

 

完璧にならなきゃ、

でもない。

 

 

未熟な自分のまんまで、
ぶっつけ本番で、
天に使っていただくのみ。

 

 

そしてぶち当たる壁も、

そこで浴びまくる洗礼も、

全ては天からのギフトと思って、

受け取るのみ。

 

 

そうしたらね、

少しずつ、自然に、

天に使ってもらってる感覚がわかる。

 

 

シンクローとか、

ミラクル!とか、

引き寄せたーとか、

 

わざわざ、

ネット越しに

世界に自慢せずとも、

 

目の前のあらゆるものが

自然にハーモニックになって、

 

 

天から愛されているんだ、って実感が

心の奥底から湧くのです。

 

アドレナリン出して願望実現!とか

言ってても、

本当の魂の望みはそこにないかもしれないの・・。

(それがだめではなく、違うってだけね)

 

 

だから、もしもあなたが使命を生きたい、

天に使ってもらいたいと願うならば、

 

悪いこと言わない。

 

いい人とか、すごい人とか、立派な人とか、

素敵な人になんかならなくっていいの。

 

 

ただただ、自分の心に嘘偽りなく、

目の前に楽しく真剣に(深刻にではなく)なるのみです!

 

 

というわけで、今日はここまで。

お読みくださってありがとうございます。

 

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